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徳川家康 と 三浦按針 ~青い目のサムライ~

今年2023年は、NHKにて徳川家康を主人公とした大河ドラマがスタートしたり、徳川・大奥を男女逆転にして描いたドラマが話題になっています。そこで今回のブログでは、徳川家康の外交顧問として重用された三浦按針ことイギリス人 ウィリアム・アダムズ(William Adams)について、通訳者の目線からご紹介したいと思います。DorotheによるPixabayからの画像)

三浦按針
ウィリアム・アダムズ

三浦按針ことウィリアム・アダムズ(William Adams)は、安土桃山・江戸初期に日本に来た最初のイギリス人とされています。

ロンドンに程近い、イングランド・ケント州 メドウェイにある街 ジリンガムにて、1564年に生まれました。

三浦按針
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で、徳川家康の政治顧問。本名ウィリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ。

造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加。慶長5年(1600年)に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着、大坂に送られて徳川家康と会見する。

同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され、相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学、地理学、造船技術など西洋諸学を教えた。

コトバンクより

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%8C%89%E9%87%9D-138210


神奈川県横須賀市は、三浦按針ことウィリアム・アダムズの縁により、彼の生まれたイギリス・ジリンガムと姉妹都市になっています。

第3代将軍 家光 の
治世に完成した 鎖国

ここで少し気になるのが「鎖国」です。

NHKで放送中の男女逆転ドラマ「大奥」の原作となった、よしながふみさんのマンガ「大奥」では、男子のみを襲う謎の疫病「赤面疱瘡(あかづらほうそう)」が日本で蔓延。将軍を始めとした世の中の様々な役割を主に女性が担っている事を諸外国に隠す為、鎖国を行った設定になっています。

しかし、実際はキリシタンの伝道ならびに信奉を禁止するのが「鎖国」の主な目的であり、始まりとされています。

因みに「鎖国」と言う言葉は、1690年オランダ商館長に医師として随行、来日したドイツ人 エンゲルベルト・ケンペル が書いた『日本誌』の一章を、オランダ通詞で著名な蘭学者でもあった志筑忠雄(しづきただお)が翻訳し、『鎖国論』と題したのが始まりと言われています。

「鎖国」は、一般的には寛永16年(1639年)から安政元年(1854年)までの間、朝鮮・中国・オランダを除く諸外国との通商や往来、日本人の海外渡航を禁止した事を指しますが、実はその前から諸外国との交易を禁ずる法令は江戸幕府から発布されており、その体制は第2代将軍 秀忠の治世に始まり、第3代将軍 家光の治世に完成したと言われています。

年表
国立国会図書館・江戸時代の日蘭交流 より キャプチャ

https://www.ndl.go.jp/nichiran/chronology.html

三浦按針ことウィリアム・アダムズは、上記年表にある1600年リーフデ号の漂着により来日。

1620年 55歳(56歳と言う説もあり)の時に肥前国平戸藩(現在の長崎県平戸市)で亡くなっていますので、鎖国が完成する前にこの世を去ったと言う事になります。

また、上記年表にある1602年 オランダ東インド会社設立にも大きくかかわったと言われています。

東インド会社は、17〜19世紀にヨーロッパ諸国がインド・東南アジアの物産の直接輸入と、植民活動に従事させた特許会社の総称で、国家的な独占企業体でした。イギリス・オランダ・フランスの3社が有力で、平戸には、オランダ商館とイギリス商館がありました。

しかし三浦按針ことウィリアム・アダムズの死後、1624年にイギリスは商館を閉鎖し、退去しています。

徳川家康 との出会い

日本で本格的な英語研究が始まったのは、以前このブログでもご紹介しましたが、文化5年(1808年)英国軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえ、食糧・薪水を強要したフェートン号事件がきっかけと言われています。

しかし、リーフデ号が日本に漂着、徳川家康がウィリアム・アダムズと出会った1600年に英語の研究は始まったとも言われています。

ただ、徳川家康は三浦按針ことウィリアム・アダムズから、数学や地理学を学び、重臣たちには砲術や航海術、天文学を指南させたとのこと。

また家康は1604年に、日本初の洋式帆船の建造をウィリアム・アダムズに命じています。

当時は言語=英語の習得よりも、進んだ技術や学問を学ぶ事が優先されたのでしょうね。

徳川家康はウィリアム・アダムズが成したこれら功績に対し、慶長10年(1605年)現在の横須賀市の一部にあたる三浦郡逸見に領地250石、刀 2本と脇差を下賜。そして「三浦按針」という名を与えました。

名字の「三浦」は領地に由来。名前の「按針」には水先案内人という意味があるそうです。

三浦按針は
何語で会話したのか

さて ここで疑問になるのが三浦按針ことウィリアム・アダムズは、何語で徳川家康や、その重臣たちとやり取りをしていたか?と言う事です。

一説によるとウィリアム・アダムズはオランダ語が話せたようです。また当時の船乗りの共通語であったポルトガル語も話せた様で、ポルトガル語通訳者を介してコミュニケーションを図ったとの記述も文献にはあります。

参考資料ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか ――日欧交渉史における役割の再検討―― / 国際日本文化研究センター教授 フレデリック・クレインス

ウィリアム・アダムズは日本人妻もおり、2子をもうけています。

ですので、長年日本に住んでいる間に多少は日本語を覚えたかも知れませんが、基本的にはポルトガル語を介して日本人とはやり取りをしていたと思われます。

また東インド会社の司令官ジョン・セーリス(John Saris)が来日した際には、ウィリアム・アダムズやポルトガル語通訳を挟んで、英語⇔ポルトガル語⇔日本語のリレー通訳が行われた事は想像に難くありません。

造船・航海技術
外交顧問

三浦按針ことウィリアム・アダムズの足跡を調べると、言語=英語の指導を日本人に行ったと言う記載は見かけません。

主に造船や航海にまつわる技術や知識の伝授や、外交顧問=アドバイザーとしての役割が大きかった様です。

しかし、彼の様な他国の状況を知る人が居なければ、日本の歴史が大きく変わっていた事は間違いありません。

当時は現在よりも、日本と西洋の生活習慣や文化は大きく異なっていたと思います。それこそカルチャー・ショックどころの話では無かったでしょう。

ウィリアム・アダムズはイギリスに妻子があり、帰国を強く望んでいたとのこと。しかし、徳川家康の命により望みが叶うことなく、日本でその生涯を終えました。

今回のNHK大河ドラマ「どうする家康」にウィリアム・アダムズが登場するか否かはわかりませんが、徳川幕府の幕開けには「青い目のサムライ」と呼ばれた外交顧問=異文化コミュニケーションのアドバイザー 三浦按針 / ウィリアム・アダムズと言うイギリス人が活躍した事も、ドラマを観ながら思い出して頂ければ幸いです。

参考サイト

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