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シーボルト / 異なる国を繋げた親子

オランダ通詞が活躍するNHK 土曜ドラマ『わげもん~長崎通訳異聞~』にも名前が登場したシーボルト。幕末期に来日し、長崎で医師として活躍。帰国の際、当時持ち出し禁止であった日本地図等を所持していた事が発覚し、国外追放となった事は多くの人がご存知と思います。

しかしシーボルト及びその息子たちが、通訳として、また外交のアドバイザー等として、日本と諸外国を結ぶために奔走していた事は、ご存知でしょうか。そこで今回は通訳/翻訳者の視点からシーボルト親子についてご紹介。さらに ハインリッヒ・フォン・シーボルトの末裔の方からコメントも頂きましたので、併せてご紹介します。

わげもん
~長崎通訳異聞~

2022年1月8日より4回に渡り放送されたNHK 土曜ドラマ「わげもん~長崎通訳異聞~」は、江戸時代 鎖国中の日本で、外国(オランダ/中国)との交易を行っていた数少ない場所 長崎 出島を舞台に、オランダ通詞(日本人のオランダ語通訳者)が活躍するドラマでした。

物語はフィクションでしたが、小池徹平さんがドラマで演じたオランダ通詞・森山栄之助など、実際に歴史上で活躍した人物も登場。

永瀬廉さん演じる主人公の壮多の父が、失踪した理由であった「シーボルト事件」も史実に基づく話でした。

フィリップ・フランツ・
フォン・シーボルト

長崎で医師として活躍したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、1796年 ドイツ ヴュルツブルク(Würzburg)の貴族で、医学界の名門であるシーボルト家に生まれました。

成長したシーボルトはヴュルツブルク大学に入学。医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学び、卒業後は医師として働いていましたが、見知らぬ国の自然を勉強したくてオランダの陸軍軍医になります。その後シーボルトは、日本へ行くことをオランダより命じられ、1823年8月11日 初来日を果たします。

シーボルトの生涯
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html

ドイツ語なまりの
オランダ語

来日した際のエピソードとして、以下の様な話が伝わっています。

シーボルトが話すオランダ語には、ドイツなまりがありました。

その点に気が付いたオランダ通詞(日本人のオランダ語通訳者)が、「オランダ人ではないのではないか」と疑いました。

当時、日本はオランダと交易を行っていた為、オランダ人でなければ基本的に入国は許されませんでしたが、シーボルトは「自分はオランダ山地出身(山岳/高地オランダ人)の為、言葉に訛りがある」と嘘をつき、その場を切り抜けました。

ご存知の通りオランダは干拓によってできた国の為、山岳地帯/山地/高地は存在しません。

この様な「嘘」がまかり通ってしまうと言う事は、当時の日本には交易を行っていたオランダについてさえ、地理的情報がなかった事がわかります。(その様な地理的情報が掲載された資料が日本にあれば、当然オランダ通詞が翻訳しますから、嘘である事は簡単に見抜けたはずです。)

一方で、オランダに行った事もないオランダ通詞が、その様な「なまり」に気がついた事は、日本のオランダ通詞がいかに優れていたかを示すエピソードであるとも言えます。

因みに、当時オランダ商館付で出島に滞在していた外国人の中には、実はオランダ人でない人も多く含まれていたようです。

ペリーにアドバイス

シーボルト事件の後、国外退去となった フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、オランダに帰国。政府の後援で日本研究をまとめ、全7巻の『日本』と言う本を集大成として出版します。

オランダのみならずヨーロッパを始め各国で、「日本学」の祖として知られる様になったシーボルトには、様々な人から「日本」についての相談が寄せられた他、シーボルト自身も日本に再び訪れる機会を得る為、様々な動きをしていたとの事。

その1つが 日本を捕鯨船の寄港地とするため、アメリカ大統領から交渉依頼の親書を、江戸幕府に渡す様 指令された東インド艦隊司令長官ペリーへの資料の提供でした。シーボルトはペリーに「日本は非常に優秀で気高い国民の為、けして武力で脅すような事はせず、話し合いにて交渉をすること」とアドバイス。「遠征艦隊への参加」も申し出たそうですが、これは「シーボルト事件」で日本を追放されていた為、ペリーに却下されてしまいました。

このペリーとシーボルトとの書簡は、長崎にあるシーボルト記念館に収蔵されているとの事です。(※展示の有無については、その時の企画等にもよります。ご注意下さいませ)

なお日米和親条約の際、首席通訳(Chief Interpreter)を務めた森山栄之助の事も、シーボルトは高く評価しています。

シーボルトの生涯については日本シーボルト協会 Websiteにも掲載されています。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
http://siebold.co.jp/kyoukai/philip

再来日

初来日の際 長崎の鳴滝に居を構えたシーボルトは、そこを「鳴滝塾」と名付け日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えた他、楠本滝 とむすばれ1女をもうけています。それが後に日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる楠本イネです。

帰国後、1845年にシーボルトはドイツ貴族出身の女性 ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけました。

1854年 日本は開国。日蘭修好通商条約が1858年に結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除された為、オランダ貿易会社顧問として、1859年4月 シーボルトは約30年ぶりに再来日を果たします。その時、一緒に来日したのが息子の アレキサンデル(アレクサンダー)・フォン・シーボルト(Alexander George Gustav von Siebold)です。

アレキサンデル
(アレクサンダー)・
フォン・シーボルト

父フィリップと共に来日したアレキサンデル (アレクサンダー)は、1846年生まれですから当時12歳でした。

アレキサンデルは、来日前はドイツ語とオランダ語が話せたと推測できます。日本語は来日後に父の門弟などに習い、驚異的な速さで修得。習字や漢文も勉強したそうです。その後 彼は英国公使館に特別通訳生として雇用されます。当初 アレキサンデルは、あまり英語は上手くなかったですが、1863年には英国の国家試験に合格して正式の通訳・翻訳官に任命されました。語学力が非常に優れていたのでしょうね。

1867年徳川昭武(当時14歳)がパリ万国博覧会に将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられると、 アレキサンデルはその通訳として同行。NHK大河ドラマ「青天を衝け」にも、 アレキサンデルは登場しています。放映時のネットでの アレキサンデルの評判を見ると、ドラマでの描かれ方も影響してか、父フィリップと共に「スパイだったのでは?」と言う書き込みも、残念ながらチラホラ見受けられます。

しかし史実を見ると、 パリ万国博覧会当時 アレキサンデルは英国公使館の通訳官でしたが、1870年には英国公使館を辞め、日本政府雇いとなります。その後、1875年には大蔵省専属の翻訳官、1881年には井上馨の秘書をつとめるなど、諸外国との条約締結や改正、外交事案、さらには日本の近代化に伴う事業にも多数関わりました。

1910年 政府は アレキサンデルの日本への奉職40年に対し勲一等瑞宝章を与えていますが、異言語を使い 日本と諸国の外交を取り持つ立場上、また「日本生まれの日本人」ではない事により、あらぬ疑いをかけられる様な事は、当時からもあったと思います。

しかし父が愛した日本で12歳から育ち、異母姉もおり、言葉だけではなく日本の文化や常識、日本人の考え方や心情を良く理解していた、つまり日本を愛していたからこそ、今以上に異なる文化や常識を持つ人々を、 アレキサンデルは言葉を通じて繋げることができ、数々の難しい条約や事業を成し遂げられのではないか?とミーハングループは考えます。

アレキサンデル ・フォン・シーボルト
http://siebold.co.jp/kyoukai/alexander

ハインリッヒ
(ヘンリー)・
フォン・シーボルト

1867年 将軍・徳川慶喜の名代として徳川昭武がパリ万国博覧会に行った際、通訳として随行したアレキサンデルは、当時ドイツに住んでいた家族のもとを訪ね、弟 ハインリッヒ(ヘンリー)・フォン・シーボルト(Heinrich von Siebold)を伴って、1869年に再来日します。

ハインリッヒは、子供の頃からドイツで父の研究資料整理の手伝いを行っており、日本に強い興味と憧れを抱いていました。

初来日当時18歳だったハインリッヒは、 オーストリア=ハンガリー帝国公使館で通訳を務め、その後書記官、代理公使なども務めました。1873年に開催されたウィーン万国博覧会では、政府の依頼により兄と共に日本国の参加への調査や出品の選定を行った他、同万博に通訳としても帯同。シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況となったとの事。

これもアレキサンデルとハインリッヒが、日本とオーストリア(ヨーロッパ)の文化の違い、何が喜ばれるかを良く知っており、上手く橋渡しをしたからこその結果ではないでしょうか。

ハインリッヒは兄と同様に日本と諸外国との外交にも助力しましたが、調査や研究が好きで、日本の歴史や文化、骨董(古物)にも造詣が深く、日本の好古家とも交流がありました。

日本の好古家たちは古物会などでハイリッヒと交流する事により、当時最先端であった欧州の考古学を学び、ハインリッヒは先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだとの事。「考古学」と言う言葉もハインリッヒが書いた『考古説略』が基になっているとも言われています。また古物会の参加者には 9代目 市川團十郎もおり、ハインリッヒは西洋に歌舞伎の魅力も紹介しました。

彼が文化や芸術への造詣を深めた理由の1つには、彼が日本橋の商家の娘 岩本はな と結婚した事もあったのではないかと思います。ハインリッヒの妻「はな」は芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われています。2人は2男1女をもうけますが、長男は夭折。次男 於菟(オットー)も25歳の若さで病死してしまいます。

晩年になったハインリッヒは病を患い、1896年には治療の為 帰国せざるを得なくなります。この帰国に際し、 明治天皇からお呼びを賜り謁見。陛下は父シーボルトの事も追憶、父子の功績にお褒めの言葉を下さり、記念の品々を下賜されたとの事です。

ハインリッヒ・フォン・シーボルト
http://siebold.co.jp/kyoukai/heinrich

シーボルトの末裔

ハインリッヒとはなの娘 レンの末裔である関口忠相氏から、シーボルト親子についてコメントを頂く事が出来ました。(ハインリッヒの家系を中心とした系譜図

言語だけではなく、現代よりもはるかに文化、常識、考え方が異なっていた日本と諸外国を繋いだご先祖様について、シーボルト親子が抱いた日本への想いなどについて伺いました。

来年2023年は大シーボルトことフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、江戸時代 長崎の地に降り立ってから200年目の年となります。その後、長男アレキサンデルを連れて再来日。そのアレキサンデルが小シーボルトことハインリッヒを連れて来た時には、日本は新時代の扉を開き明治の世となっていました。

私は父(関口忠志)がシーボルト研究においては子孫の代表をしておりましたので、その父のお供として様々な場に赴き、また時に父の代わりに皆様の前でお話しもさせて頂いておりました。しかし研究者でもあった父とは違い、その資料整理をしながら横で聞きかじったくらいの私では、とても史学講演のようなことは出来ません。

ただ、自信を持ってお話し出来ることと言えば、今とは比べものにならないほどに世界が広かったころ、遠いヨーロッパの地から異国人が命を懸けて海を渡り、その命を燃やして尽くした国がこの日本であって、その証しとして今私がここに存在していること。

そして、およそ200年前にこの地に降り立った異国人 シーボルトにその決意をさせてくれたのは、当時のこの日本に暮らした人々であったことは紛れもない事実です。この国 日本は本当に素晴らしい国であったこと、日本人には誇るべき先祖、愛するべき国土が間違いなく存在をしているということです。

是非、時代を越えてシーボルト父子を思い出して頂く時は、合わせてその彼らを世代を越えて魅了し続けたご自分のご先祖さまのことにも想いを馳せて頂けましたら嬉しく存じます。

関口忠相

来年2023年はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト初来日から200年との事。コロナ禍の状況にもよりますが、幕末期 言葉を用いて異なる国を繋いだシーボルト親子に、そしてそのシーボルトを魅了した日本や日本人に、長崎で思いを馳せるのも良いかも知れないですね。

2020年に初演、2021年8月に再演された 次男ハインリッヒ・シーボルトを主人公に、シーボルト兄弟の活躍を描いた舞台「シーボルト父子伝~蒼い目のサムライ~」も、2022年 再び上演することが予定されているとの事。こちらの舞台も楽しみです。


ミーハングループ代表通訳者の右田アンドリュー・ミーハンは 長崎県佐世保市出身ですから、日本と異国を繋いだシーボルト親子にも、職業的な使命は基より、長崎繋がりのご縁も感じています。

先人たちが、幕末と言う激動の時代に「言葉を用いて」異なる国の人々の心を繋げた様に、ミーハングループも「言語だけに留まらない 文化・ビジネス・心の橋渡し」をモットーに、様々な人々のコミュニケーションをサポートしてまいります。

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