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オーストラリアのクリスマス

クリスマス そして 年末年始が近づいてきました。今回の本ブログ記事では、南半球・オーストラリアのクリスマスについてや、日本とオーストラリアの深い結びつきを感じさせる教会 / 牧師様のエピソード等を、ご紹介したいと思います。Patty JansenによるPixabayからの画像)

オーストラリアの
クリスマス

北半球に位置する日本とは、季節が逆の南半球 オーストラリア。つまりオーストラリアは、真夏にクリスマスを迎える事になります。

サンタクロースがサーフィンに乗ってやってくるオーストラリアのクリスマス・カード等を見たことがある人も居るのではないでしょうか?

こちらはオーストラリアのスーパーマーケット ALDI のCMになります。いかにもと言った感じですが、いかがでしょう。

オーストラリアでは、クリスマス時期に海岸でパーティーやイベントを行う事も多い様ですが、先日、観光地としても知られるボンダイビーチの近くでテロ事件が起きてしまいました。

被害にあわれた方々の早期回復を願うと共に、亡くなられた方々及びそのご家族の方々には、心から哀悼の意を捧げます。

アメリカから見た
オーストラリアのクリスマス

こちらの動画は、2001年にサタデー・ナイト・ライブ / Saturday Night Live (SNL)で放送されたエピソードになります。

ご存知の通りSNLは、アメリカNBCで 毎週土曜日の夜(11:30ET 10:30CT 9:30MT 8:30PT)に生放送されている、90分の公開コメディバラエティ番組です。

オーストラリアの俳優 ヒュー・ジャックマン / Hugh Jackmanが出演し、アメリカ人が想像しそうなオーストラリアのクリスマスの様子をコメディ・スキットにて紹介しています。

クリスマスに欠かせない
お菓子・パヴロバ

オーストラリアのクリスマスに欠かせないお菓子と言えば、パヴロバ / Pavlova ではないでしょうか。

焼いたメレンゲの上にフルーツや生クリームをたっぷりのせた軽い口当たりのデザートで、名前の由来は1920年にオーストラリアとニュージーランドを訪問した、ロシアの有名なバレリーナ アンナ・パヴロワ / Anna Pavlova からとのこと。

この為、パヴロア発祥はオーストラリアなのか、ニュージーランドなのか?長きに渡ってもめていると言う話もあります。

Aline PonceによるPixabayからの画像

Then and Now
クリスマスの様子

こちらは、今年2025年にオーストラリア・アデレードで行われたクリスマス・ページェントの様子をレポートするABC(オーストラリア放送協会 / Australian Broadcasting Corporation)の動画です。

今年で93回目を迎えるこのイベントには、33万人以上が来場したとのこと。強い日差しの下、氷や雪景色を模したフロートが通り過ぎる様子は、いかにも南半球 オーストラリアのクリスマス・イベントと言った感じです。

続いて紹介する以下動画は、第二次世界大戦が終結した1945年から2年後、1947年のアデレードのクリスマスの様子を記録した動画とのこと。

今から78年も前の事とは言え、その様子の違いには目を見張るものがありますが、タイトルにある Christmas Under The Sun が、昔も今も変わらないオーストラリアのクリスマスを表していると言えるでしょう。

The National Film and Sound Archive of Australia(NFSA)は、YouTubeチャンネル @NFSAFilms にて、オーストラリアの様々な記録動画を公開しています。

St John's
Anglican Church 

オーストラリアの首都 キャンベラにある St John's Anglican Church(正式名称 St John the Baptist Church, Reid)は、英国国教会(Anglican Church・アングリカン・チャーチ・聖公会)に属する、キャンベラで最も古い教会でです。

Website
https://www.stjohnscanberra.org/

2022年9月8日に亡くなられたエリザベス2世は、1954年と2011年に同教会を訪問しています。

実は、この歴史ある教会には、日本との深いつながりを示すモノが展示されています。

それがコチラの竹で出来た十字架です。

この十字架は1950年 同地を訪問した日本聖公会首座主教 八代斌助(やしろひんすけ)師父が、第二次世界大戦時、理不尽なかたちで犠牲となったオーストラリアの人たちの遺族へ、謝罪と和解を求めるために贈ったとのこと。

八代斌助 師父
プロフィール

神戸国際大学・学院創立者八代斌助師父 逝去50周年特設ページより

八代斌助師父(1900〜1970)は、大正10年に立教大学予科を修了後日本聖公会神戸教区伝道師補に任命されて、昭和45年10月10日ガン性腹膜炎で永眠するまで牧師としてキリスト教の宣教に従事されてきた。その間、昭和2年に司祭となり、昭和3年には英国ケラム神学校に留学、昭和15年に神戸教区補佐主教となり、その後、九州教区、朝鮮聖公会、大阪教区などの管理主教を歴任、昭和22年に日本聖公会主教会議長となり、首座主教の地位にあった。

 戦時中に、軍部や政府の圧力によってプロテスタント系各派とともに日本聖公会も日本基督教団へ合同することを強要されたさいに、八代師父が種々の迫害をかくごで日本聖公会をまもり通したことは有名である。

 戦後はいちはやく教会再一致をめざす、いわゆるエキュメニカル運動の先鞭をつけ、昭和23年には連合軍総司令官マッカーサー元帥の特別の許可を得て、戦後、初の公式の海外波航の民間人としてロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席したのちに、アムステルダムで開かれた世界教会会議(WCC)に出席したりした。その後、日本キリスト教協議会(NCC)副議長、日本聖書協会副理事長を永年つとめ、最近では万国博キリスト教館会長として活躍するなど、エキュメニカル運動への貢献か大である。また戦後初めての渡航のさいには、イギリス国王ジョージ六世あての天皇のメッセージを伝達したし、有名なテニスのデヴィスーカップ争奪戦への日本の復帰や講和会議の下準備などにも尽力した。

 昭和24年の戦後二度目の海外渡航のさいには、アメリカでワシントンの極東委員会のマコイ議長の依頼をうけて、帰途にフィリピンや香港の日本人戦犯を訪問したりしている。さらに昭和25年には当時まだ対日感情が好転していないオーストラリヤやニュージーランドへの訪問旅行をして、親善使節の役割りをはたした。その後もたびたび外遊して、民間人としての立場から日本の国際的地位の向上につとめられた。もっとも、昭和32年にときの岸首相からイギリスの水爆実験中止を要請するために特使として渡英することを懇請されたが、「宗教家は政治家に指図されるべきではないとことわり、代わりに当時立教大学総長の松下正寿氏を推薦した。

 他方、八代師父は教界においてはまったくの型破り的専在で、往年は酒豪としても知られ、世俗的な庶民性を身につけた、いわゆる牧師という通念からはほどとおい人物であって、町内会の夜警をひきうけたり、学校のPTAで活躍したり、みずから左官をやったりなどの勤労奉仕マニヤであったりした。それとともに、教界だけでの活躍にとどまらず、11人の子だくさんの関係もあってか、教育にも異常なまでの情熱をいだき、聖公会系の各地の大学、高校、中学、幼稚園などの理事長、理事、院長などを兼ねていたことは、特筆にあたいしよう。昭和24年にはカナダのトロント大学、昭和33年には英国のオックスフォード大学より、それぞれ名誉神学博士を授与されている。その他の主な肩書きは次のとおり。

 日本聖公会首座主教、日木聖公会神戸教区主教、聖公会神学院理事長、聖路加国際病院理事長、立教学院理事長、松蔭女子学院理事長、桃山学院理事長、八代学院理事長、聖跡加看護大学理事長、国際キリスト教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園園長、聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、日木聖書協会理事、ボーイスカウト日本連盟相談役

 著書は「主イエス」『九十九の羊は』「聖書について」「戦後の世界を巡りて」 『ああ濠州よ』八代斌助師主宰「ミカエルの友第百八十三終刊号より」

https://www.kobe-kiu.ac.jp/info/about/hinsuke50th/

クリスマスはご存知の通り、イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教のイベントです。もちろん、華やかな催しに参加したり、友達や家族と楽しい時間を過ごす事も大事ですが、時にはこの様な歴史的な出来事や、その背景、また世界平和に尽力した人々に、思いを馳せるのも大事なことではないでしょうか。

通訳者からのTips

八代斌助師父は、前出のプロフィールにもありますが、神戸国際大学St. Michael's International School / 聖ミカエル国際学校(神戸)等の創立に関わった他、立教学院理事長や国際基督教大学理事も務めるなど、教育に力を注いだ方でもあります。

神戸にはインターナショナルスクールが数多くあり、私は長崎県佐世保市の出身ですが、卒業した高校は1913年創立の Canadian academy 神戸です。

Canadian academy には中等部・高等部がありますが、八代斌助師父が創設した St. Michael's International School には、日本で言う中学や高校に相当するクラスが無い為、卒業後は中学部のあるインターナショナルスクールへ編入する人が多いとのこと。

私が通っていた当時も、Canadian academy の中等部や高等部に St. Michael's International School の卒業生が、沢山在籍していました。

この他にも 神戸のインターナショナル・スクールとしては、1951年に創立の Marist Brothers International School / マリスト国際学校 が知られていますし、2025年には North London Collegiate School Kobe (NLCS Kobe) が開校しています。

これらの学校は英語がメインのインターナショナル・スクールですが、ドイツ語がメインの学校・Deutsche Schule Kobe International / 神戸ドイツ学院インターナショナルや、2005年に閉校しましたがノルウェー語がメインのルーテル国際学園ノルウェー学校も神戸にありました。

1953年 いわゆる黒船来航・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航したことをきっかけに、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を1858年7月に締結。それまで長きに渡り続いていた「鎖国」が終了しました。

その後、外国との交易拠点として計画された兵庫港開港に伴い、1868年(慶応3年)~1899年(明治32年)まで外国人居留地 / 神戸居留地が設けられる等、横浜に並んで神戸もいち早く国際的な街になりました。

幕末から明治へ ~兵庫津から神戸港~(神戸港湾事務所ホームページ)

慶応3年(1868年)12月7日、兵庫港開港となりました。 当初、幕府が諸外国との間に調印した「修好通商条約」で 決められた開港地は兵庫津が対象でした。(中略)

しかし、四ヶ国連合艦隊が兵庫に来た際に付近の海域を測量した結果、 英国公使パークスは兵庫港より神戸の入り江の方が港に適していると判断し、 その後方の土地が居留地に選定されたのです。(中略)

こうして開港地が兵庫から神戸になったのです。 その後、明治25年(1892年)勅令により「神戸港」となると、 急速に近代化し、人・物・情報が行き交う拠点として、また、国際貿易港として、 世界を代表する港に発展しました。
https://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-3.html

この様な歴史的な背景あるからこそ、神戸には沢山のインターナショナル・スクールがあると言えるのではないでしょうか。

様々な事象の裏側には必ず歴史的な背景があります。これは言葉も同じ事。その背景に目を向け、知ることで、より深く物事や言葉を理解する事が出来ると私は思っています。

右田アンドリュー・ミーハン

日豪友好協力基本条約
署名50周年

日本とオーストラリアは、来年2026年に日豪友好協力基本条約署名から50周年となる節目の年を迎えます。

これに伴い、外務省及び在日オーストラリア大使館・在オーストラリア日本大使館が、現在【「日豪友好協力基本条約署名50周年」における周年事業の募集】を呼びかけています。

豪日交流基金助成金プログラム特設サイト

ミーハングループには、オーストラリア出身の翻訳者 アラン・エバンスが在籍。現在アランは、オーストラリアニュージーランド商工会議所 / Australian and New Zealand Chamber of Commerce in Japan(ANZCCJ)のメンバーとしても活動しています。

北半球と南半球と言う、位置する場所の違いはあれども、歴史的にも関係の深いオーストラリアと日本。これからも様々なことを通じて、より良い関係が築ける事を心より願っています。

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